THE TRACE
H. SAKAI
キャンプ場のイメージ

道具

ナイフ一本から始まった

読了 31,146 文字

ものを減らしたはずなのに、唯一増え続けているものがある。
キャンプギアだ。
すべては、一本のナイフを買ったことから始まった。

身の回りのものを極限まで減らし、身軽に生きようと決めたはずだった。それなのにここ数ヶ月、唯一その流れに逆行して、増殖を続けているカテゴリーがある。

キャンプ道具(界隈の言葉でいえばギア)。

消えないものを探して

きっかけは、あまりにも急速に進歩し続けるAI。

AIの出現で、僕たちの仕事は劇的に便利になった。けれど、長年Webの世界に身を置いていると分かる。今の最先端も、数年後にはまた古いものとして捨てられ、次の何かに取って代わられる。そんな移ろいやすいデジタルデータばかりを追いかける日々に、ふと疲れを感じてしまったのだ。

「流行に左右されない、不変なものはどこにあるんだろう」

そう考えを走らせた結果、なぜか僕の脳細胞は「ナイフ一本あれば、文明が滅んでも生き延びられるやんけ」という極論にブチ当たった。...ゼロイチ発想すぎる。

HELLE のノルドリス

それからは早かった。フレームワークの公式ドキュメントを読み込むのと同じ、あるいはそれ以上の情熱で、ナイフについて調べ尽くした。ブランドの歴史、鋼材の特性、グリップの握り心地、刃の形状(スカンジグラインド、フラットグラインド……)。

最初に狙いを付けたのは、ノルウェーの名門HELLEの『ノルド』だった。しかし、初心者には少し重厚すぎるとのレビューを見て、弟分にあたる『ノルドリス』を選択。一生使い倒せると確信できる、最高の一本を手に入れた。

そこからが本当の沼だった。ブッシュクラフトという言葉を知り、サバイバル技術の本を買い込み、ロープワークを練習し、YouTubeで海外の熟練者たちの動画を夜な夜な眺める。気づけば、タープにテント、ククサ、頑丈なバックパック。僕の部屋には、ミニマリズムとは正反対の無骨なギアたちが整列していた。...エヘヘ。

それでも、東京では

ただ、現実はそう甘くない。 ここは東京。思い立ってベランダで焚き火をしようものなら、即座に通報されるに違いない。薪だってAmazonで「ポチる」ものであり、森に落ちている枝を拾って焚べるなんてシチュエーションは、この都会には存在しないのだ。

結局、パソコンのモニターが光る部屋で意味もなくパラコードを編んだり、珈琲豆をシェラカップで軽く炙り、携帯用のミルでひき、ククサにいれてベランダに仮設置したキャンプチェアで飲む。近場のテント設営のみOKな公園で道具を広げてニヤニヤしたりするのが関の山なのが現状である。

本格的な一泊キャンプへの第一歩は、まだ踏み出せていない。けれど、僕のデスクの傍らでは、ノルドリスがいつでも出陣できるよう、鈍い光を放ちながら磨かれるのを待っている。

デジタルが消えても、これだけは手元に残る。そう思うだけで、なんだか少し、強くなれた気がするのであった。

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